豊平館とは
豊平館は、開拓使が建てた洋造ホテルであり、明治政府が建てた唯一のホテルであるとともに、開拓使建築の貴重な遺構です。
安達喜幸を中心とした開拓使工業局営繕課の設計、大岡助右衛門の請負で明治12年(1879年)春に着工し、翌13年(1880年)11月に完成。続いて附属施設、敷地周囲の鉄柵や門などの工事が行われ、明治14年(1881年)8月に全工事を完了しました。
工事完了直後に明治天皇行幸の際の行在所となったのをはじめ、大正、昭和天皇が皇太子の時に行啓された由緒ある建物であり、国の重要文化財に指定されています。
建物の特徴
アメリカ風様式を基調とした木造2階地下1階建てで、外壁は下見板張り、基礎は石積で屋根には8基の煙突が取り付けられています。
左右対称の立面を持ち、正面中央部には半円形の車寄せ、その上部はバルコニーとなっています。
木部はペンキ塗りで、下見板は白、柱や窓枠などはウルトラマリンブルーを使用した白群青とする鮮やかな外観が特徴です。
正面中央部の棟飾り、左右の翼部の破風飾りには開拓使の建物であることを示す五稜星があしらわれています。また、正面大屋根には和風意匠の懸魚が用いられています。
内部では、伝統技術で作られた和風意匠の美しい天井中心飾をはじめ、漆喰塗で仕上げられた暖炉のマントルピースなど、当時の優れた左官技術を見ることができます。
歴史
ホテルとして建てられた豊平館は、建設当時、建物の後方に平屋建ての附属棟を持ち、厨房、浴室、トイレなどが設けられていました。
明治天皇の行幸後は民間に貸し付けられ、旅館と西洋料理店が営まれ、しばらくはホテルや宴会場としての役割を担っていましたが、しだいに公民館としての機能も持つようになりました。
大正11年に札幌に市制が施行され、札幌市の所有となったのち、豊平館後方を撤去し、新たに公会堂が付設されました。
昭和8年(1933年)には明治天皇行幸ゆかりの地として聖蹟に指定(昭和23年に解除)。
戦争中は軍に、戦後の一時期は進駐軍に接収されていましたが、昭和23年(1948年)には札幌公民館となり、翌24年(1949年)には札幌市民会館と改称されました。
その後新しい市民会館を建設する方針が固まったことから、豊平館は解体か保存かの議論が起こりましたが、移築保存が決定し、中島公園の現在地に昭和33年(1958年)に移築、札幌市営の結婚式場としての利用が始まりました。
昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定。
その後2度の工事を経て、平成28年(2016年)6月からは、観覧・貸室施設として活用することとなりました。
修復工事と保存活用工事
現在地への移築後、豊平館では2回の大規模な工事を行っています。
1回目は昭和57年(1982年)から5カ年をかけて実施。
老朽化に伴う修復工事を主体とし、併せて復原工事も行いましたが、結婚式場として必要な部分は残しました。現在の白地に白群青の外観色は、この時の工事にあたり実施された調査において判明した建設当初のものです。
2回目は平成24年(2012)から平成28年(2016年)にかけて実施。
平成19年(2007年)に実施した耐震診断の結果、耐震補強が必要となったことをきっかけとして安全性の確保、バリアフリー対応、老朽化対応、活用方法について検討を行い、耐震補強に加え、可能な限りの建設当初の姿への復原を行う「保存修理工事」と、豊平館の復原に伴う諸機能の移設とバリアフリー対応を可能とする附属棟の設置を主な目的とした「活用整備工事」を行いました。
沿革
- 明治13年
- 11月豊平館竣工
- 14年
- 明治天皇行幸、行在所として使用
- 15年
- 札幌県の所属
- 18年
- 宮内省の所管
- 23年
- 御料局札幌支庁の所管
- 43年
- 宮内省から札幌区に貸し下げられる
- 44年
- 皇太子(後の大正天皇)行啓
- 大正11年
- 皇太子(後の昭和天皇)行啓、宮内庁から札幌市に下賜
- 昭和2年
- 新公会堂落成
- 8年
- 「史蹟」に指定
- 18年
- 北部軍占有
- 21年
- 進駐軍が豊平館を使用
- 22年
- 接収解除
- 23年
- 史蹟指定解除、札幌公民館となる
- 24年
- 札幌市民会館と改称
- 33年
- 中島公園へ移築、結婚式場としてスタート
- 36年
- 札幌市有形文化財に指定
- 39年
- 国の重要文化財指定
- 57年
- 修復事業着手
- 61年
- 修復事業終了
- 平成24年
- 保存活用工事着手
- 28年
- 保存活用工事終了
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